2016-2-27 脳出血から後遺症リハビリと様々な体験談を紹介します

 
 

2016-2-27 脳出血による後遺症で介護施設へ入居した祖母のケース

 
祖母が脳出血を起こしたのは83歳の時でした。
高血圧の症状はあり日頃から降圧剤を飲んではいたものの、それ以外は至って健康な人でした。ところが、ある日、コタツに入ってうつらうつらしている時に、突然ちょっと頭痛がすると言い出し、そしてその時にろれつがまわらず何となく様子がおかしいと気づいたのでした。コタツから出ようとすると足が麻痺したようになりよろけてしまい、母と私はこれはただ事ではないと思い、すぐに救急車を呼びました。
 
近くの大学病院に搬送された祖母は、意識は意外としっかりとしていたのですが何せ、言おうとしていることがやはり理解しにくく救命救急の先生方の質問にはうまく答えられないようでした。CTをすぐとってもらい様々な検査を行ったところ左の脳の一部に出血がみられるとのことでした。
 
出血は幸い小さいものでしたので高齢ということもあり、そのまま降圧剤、血液をサラサラにする薬などの投薬で対処していくということでした。少し言語障害が残る可能性もあると言われました。それでも一時的に上昇した血圧をおさえるための治療を集中的におこなってもらい3週間ほど入院しました。
 
担当医師の診断通り、言語障害が少し残り、また右手と右足に軽い麻痺がありましたがリハビリも最初のうちはかなり積極的に行っていて脳出血発症後半年ぐらいすると、まずまず生活には支障がない程度にまで回復しました。
 
ところが、このころから物忘れが酷くなったり、すぐに怒りやすくなって怒鳴り散らしたり、かと思えば泣いたりといった感情失禁の症状が出現してくるようになり家族は何かと祖母に振り回されるようになってきたのです。穏やかな性格だった祖母のこの豹変ぶりには私もさすがに驚きを隠せませんでした。後になって思えばこれが脳出血による後遺症による認知症の始まりだったのでしょう。
 
最初のころは性格的な変化や物忘れを除けば、自分でお風呂にもトイレにも行けましたから、それほど介護が必要という訳ではなかったのですが、脳出血発症後1年たち1年半たってくると次第に認知症が悪化してくるのがわかりました。例えば食事をボロボロこぼすようになったり、人との会話に興味が無く、自分のことばかり話す。そしてあれだけ好きだったテレビのドラマも全く見なくなってしまったりと認知症特有の症状が目立ってくるようになったのです。この時点では特に日常生活に支障が出ていた訳ではないので家族も温かく祖母を見守っていたという感じでした。
 
しかし2年ぐらい経過したころから失禁することも増え、その下着を押入れに隠したりしはじめたため、祖母の室内は常に異様な臭いが漂うようになりました。私の役割は、祖母の部屋に隠された汚物のついた下着を探して洗濯することでした。当時私は離婚をして出戻っていたので、病弱な母が一人で祖母の介護をすることがないようにパートとの両立で介護の一端を担っていました。
 
しかし汚物処理や暴言の数々など、精神的に参ってしまう極限のような状況が続くにつれ私自身も介護うつの状態になっていったのです。母も病弱、私も鬱状態。これはもう限界だと感じ早速介護認定をとってもらったケアマネさんに我が家の状況を説明し、介護施設への入所についての具体的な手続きを行いたい旨を相談しました。
 
当時の介護認定は、歩行はとりあえず出来ること、しかしトイレの失敗が多いことから要介護3という判定でした。特別養護老人ホームへの入所資格はありますが、やはり優先度に関しては一番低いのですぐに入所するのは難しいとのことでした。
 
しかし昼夜逆転の症状もあり、夜中に起きていることも多く、その間のトイレ誘導も私の重要な役割となり私は十分な睡眠も取れなくなってしまい、何もやる気がしなくなり更なる鬱症状の悪化が見られました。私自身が心療内科から軽い抗鬱剤の処方を受けながらの祖母の介護で心身ともボロボロになってしまったのを見かねて母が祖母を有料老人ホームへ入所させると言い出しました。
 
有料老人ホームは、即日入所出来るようでしたがまとまった費用もかかりますし私的には反対でした。しかし、このような介護状況で介護人である私、そして母と祖母が共倒れになってしまう可能性も強まった状況に置かれたら、お金のことは言ってられないのかもしれないと考えるようになり、自宅から近くに新しくできた小規模のホームの見学に行きました。
 
祖母と同じくらいの認知症を患った入居者さんが30名ほどの有料老人ホームは明るくて職員さんたちも生き生きと仕事をされている様子で、かなり好印象を持ちました。ここなら祖母もきっと安心して余生を送れるだろうと最終的に入所を決めました。
 
現在、祖母は認知症がかなり進み、私たちのこともほとんど認識できなくなってしまいましたが、入所したことで我が家にいる時のように荒れて怒鳴り声をあげることもなく、とても穏やかに毎日を過ごしている様子を見ると、本当に入所させて良かったと思っています。
 
 

2016-2-26 脳出血を2回起こし要介護5となり介護施設に入所しました

 

 

脳出血から介護認定を受けたのは、私の祖母の話です。
 
私の祖母は、一人ぐらしをしていました。
脳出血となるまでは、自分の身の回りの事は出来ていたのです。
そのため、その脳出血を起こすまでは一人ぐらしについても、それほど心配することがなかったのです。
 
ところが、80歳になった時、少し自分の事をすることが面倒になってきたらしいのです。
それは、動くことが辛いということです。
そのため、一人ぐらしをすることは無理と考えて、どこかに施設を探すことにしました。
ところが、どこの施設もいっぱいで入所をすることができなかったのです。
 
そのことから、私と一緒に暮らすことになったのです。
その時、祖母の一つのことが気になっていました。
それは、水分摂取が少ない事です。
冬はいいのですが、夏になると脱水になるのではないかと心配をしていたのです。
そして心配していた事が、実際に起きてしまったのです。
 
それはある夏の時、私が自宅に帰宅すると、祖母が動けなくなっていたのです。
転倒をしたらしく、動けない状態でした。
その転倒をしたというのは、めまいがして動けなくなったということでした。
その時思ったことは、脱水です。
祖母はやっぱり、脱水を起こしてしまったと思ったのです。
 
そしてもう一つ気になった事は、祖母のろれつがおかしいということです。
少しろれつが回っていないと感じたのです。
そのため、これはいけないと思い、救急車を手配しました。
その時に、脳出血等を起こしていると思ったのです。
 
そして病院に搬送されると、私が想像していた通り、脳出血を起こしていることが分かりました。
そのときは、どうしようという気持ちになりました。
しかし、そのように思っても仕方がありません。
とりあえず入院をして、処置を受けることになったのです。
 
そして3ヶ月後、なんとか動けるようになりました。
歩くことは無理なので、車椅子で移動をすることができるようになったのです。
自宅に帰宅をするのは無理という病院側の配慮で、一時的に施設に入所をすることになりました。
 
そしてその施設で、生活をすることになったのです。
ところが、その施設では3ヶ月しか入所をすることができません。
そのため、自宅に連れて変えるためには、改装をすることが必要となります。
そんなことを考えながら、毎日どうしようと悩んでいました。
 
そんなある日、介護施設から連絡があったのです。
その連絡があったのは、そこに入所をして、2ヶ月目のことです。
それは、再び状態が悪くなったというのです。
ろれつがますます回らなくなり、手も動かなくなったというのです。
そのため、再び緊急入院をすることになりました。
すると、恐れていた2回目の脳出血となったのです。
 
そのときは、命が危ないのではないかと、とても心配をしました。
病院で処置を行ってもらった結果、なんとか意識を取り戻すことができたのです。
祖母の生命力は、ほんとうにすごいと、その時は思っていました。
しかし、心配なのはその後の後遺症についてです。
2回目ということもあって、相当覚悟をすることが必要と思っていたのです。
 
リハビリを行ったりして、なんとか話すことは出来るようになりました。
しかし、寝たままの状態となってしまったのです。
排泄の介助、食事など全てのことについて、介助が必要となります。
その時、自分に出来るだろうかと不安になっていました。
 
そんな時、その病院が介護施設を紹介してくれたのです。
祖母の場合、介護認定で要介護5という認定を受けたのです。
そのため、介護施設に入所することがむつかしいと思っていたところ、優先的に入所をさせてくれることになったのです。
その時は、祖母に申し訳ないと思いながらも良かったと感じました。
それは、私一人で祖母の介護をすることはむつかしいと思ったからです。
そして介護施設に入所することが出来ると思うと、ホッとしたのです。
 
退院後、そのままその介護施設に入所をすることになりました。
その施設は、特別養護老人ホームです。
そこは、祖母と同じように寝たきりになっているご老人が何人か入所していました。
祖母もそこで、介護を受けることになったのです。
寝たままの状態なので、2時間ごとに体位を変えてもらっています。
それは褥瘡予防です。
そのように十分な介護を受けられることは、本当にありがたいと思っています。
 
もしも要介護5と認定を受けていなかったら、その介護施設に入所をすることが出来てなかったと思います。
そのため、祖母には悪いと思いながら、その状態であるので入所ができたと感じています。
 
その施設では、季節ごとに催し物なども開催してくれます。
話すことができない祖母も、感情はしっかりしています。
そのため、そのような祖母が嬉しい、楽しいと思うことをしてもらえるのは、本当にありがたいです。
祖母と一緒味暮らすとしたら、そのようなことをする余裕はありません。
多くのスタッフと、24時間の介護が出来る施設だからこそ、そのことが出来ると思っています。
 
 

2016-2-25 脳出血でリハビリを受けた私の体験談

 

 

脳の病気というのは本当に大変なことです。

 

もちろんほかにもたくさんの部位の病気はありますが、脳というものは最も重要な体内の器官といってもいいわけでしてそれだけに大変でした。

 

そのぶん脳は大事なんだと思い知らされることばかりでしたね。

 

私が脳出血におちいったのは、あれは2009年の冬の終わりごろでした。

 

私は近隣の市の中心街まで車で出かけていたのです。

 

冬も終わりですからそれほどに寒くはありませんが、朝晩は冷えましたね。

 

寒い場所は苦手ですから、デパートの中などを室内をいろいろと回っていたわけです。

 

あるフロアに居たとき…それは7階の雑貨売り場でしょうか。

 

そこで私はすこしフラフラッとした感覚に襲われました。 なんだかクラクラする…。

 

クラクラするといえば風邪などの症状も考えられますしちょうどこの時期はインフルエンザの注意しなくてはならない時期です。

 

しかしそれとはちょっと違います。

 

今日は手も痺れがあったりして、調子が良くなかったから来なければよかったかな?などとも一瞬で思いました。

 

しかしそうは言ってもほとんど思考回路が働いていないような、上手く言い表せないのですが世界がぼやけた感覚がしたんですよね。

 

世界が遠く感じる感覚で、やけに悪い酔いに包まれる感覚…というのが最も近いでしょうか。

 

私は雑貨屋の近くのイスのおいてあるコーナーに歩いていきました。

 

しかしどんどんと意識が遠のく感じは深くなっていくばかりです。

 

イスに横たわった私はドスンと床に落ちました、実はこのときは衝撃を覚えていただけでほとんど意識は薄かったです。

 

そしてここからは私が後で聞いた、一部始終からの話なのですが…。

 

私が床に転がってしばらくすると、ある男性が私を見て驚いたようです。

 

そして近くに居た雑貨屋の女性店員さんに「あの人、大丈夫?」などと話したことで私が無事に病院に搬送されたきっかけとなりました。

 

脳出血というものは非常に危険な病気でありまして、いち早い病院への搬送が必要となります。

 

脳は大事な器官ですが、どの場所を出血するかで深刻さが変わってくるようです。

 

かなり中心の場所…生命の維持をつかさどる場所で脳出血が起こればそれだけですぐさま命の危険です。

 

さいわい私はそういったことは免れ、一命を取り留めたのでした。

 

私がはっきりと意識を取り戻したのときには、中心街近くの大きな病院でした。

 

ここは以前も私が軽い交通事故を起こした時にお世話になった病院で、ここに運ばれてきたことを知ると妙に安堵感がこみ上げてきたのを覚えています。

 

そういったことは大事ですね、おかげでリラックスできたのかもしれません。

 

どうやら私は脳出血を起こしたことがそこで分かったのですが…。

 

なにやら高血圧だった私の体は、あるとき脳出血という形で牙をむいたようなのです。

 

結局は手術ということになり、今考えてみても大変な状態だったことが分かります。

 

手術は無事終了し、わたしは横たわってぼーっと宙を見ていました。

 

薬を投与されて少しは穏やかな状態でほっとした感覚がありましたね。

 

思えば高血圧というものは、私の母も高血圧で何らかの問題があって定期的に病院に通っていました。

 

心臓に影響があるから薬を飲んでいる、などと言っていた事を思い出しますが、まさか私が高血圧をきっかけに脳の病気で倒れるとは思いもよりませんでした。

 

そうして容態も落ちついてきた私はリハビリを受けることになりました。

 

近隣のリハビリセンターに行くことになったのですが、ここは今まで見たことのない場所にありましたね。

 

知らない場所がないと思っていましたがこんなところがあったなんて、しかし横には川がさらさらと流れていてとても落ち着いた場所なんだなと感じました。

 

あのときのことを思うと、なんだか不思議な気分になります。

 

今までの私といえば何だかせかせかと生きていて、余裕もなさそうな感じもありましたね。

 

特に何に問題があるかということではないですが、何だか無気力に生きていましたね。

 

発症後はすっきりとした感じで、今までずっと生きていることに感謝を感じながら今日まで来れています。

 

リハビリセンターではゆっくりと、復帰にむけたリハビリを行いました。

 

リハビリというものは私が想像していた通り、歩く訓練もありこれに私も挑戦することになりました。

 

手すりにつかまりながら歩くのですが、こんな歩くという初歩的なこれほど大変なことだとは考えたことも無かったんですよね。

 

確かに歩かなければ日常生活は送れませんし、重要なことなんですよね。

 

他にも常に体を慣らすために少しずつ「動き」を入れることをしていました。

 

聞いた事があるのですが、何の病気でも入院したりして体を動かさないでいると急激に体のパフォーマンスが落ちるらしいです。

 

筋肉も目に見えて細くなって明らかに体力も落ちたりするんですよね。

 

脳出血ということですから、そもそも運動が困難な状態であるので意識的に動きを入れていかなければなりませんでした。

 

今考えるととても大変なリハビリでした。

 

しかしそのおかげでこうやって人並みに生活できるようになって感謝しています。

 

血圧にも注意するようになって食生活も気を付けたものになりました。

 

心も、穏やかを心がけるようになって今は心理面でも安定しているように感じますね。

 

とにかく今生きていられることが出来て、病気で関わった色んな方々に感謝しています。

 

 

2016-2-24 脳出血から介護認定を受け介護施設までに入所する流れとは

 

 

普段の日常生活においてどんなに健康に気を付けていても高齢になるほど病気を発症するリスクは高くなりますのでいざという時のためにある程度の知識を備えておく事が求められます。
 
実体験として私の79歳が倒れて救急搬送された父の例を挙げどう対処していけばよいか説明していきます。
 
まず脳出血とは脳の血管が何らかの原因で破れ脳内に血液が溜まってしまい意識障害や運動障害、感覚生涯を引き起こす病気です。脳出血はとにかく1分1秒を争う大きな病気で治療を受けられるまでの時間をいかにして縮められるかが重要です。救急車を呼ぶのが遅れたりほうっておくと血腫が多く溜まり頭蓋を圧迫する力がより強くなって脳ヘルニアや症状が進行すると死に至る病気でもありますので注意が必要となります。
 
うちの父の場合は普段から飲酒、喫煙を好み血圧が高めで降圧剤の治療を受けていました。そんな矢先の真冬の朝に病が発症したのです。耳鳴り、偏頭痛を訴えたので軽い病気だろうと鷹を括り近くにある総合病院で治療を受ける事になりました。すると治療している最中に意識障害を起こし意識を失いましたので市内にある40km離れた市立病院まで救急車で搬送され診察を受ける事となりました。診断の結果は高血圧性の被殻出血で緊急手術を行いなんとか一命を取り留める事ができたのです。術後も父の意識は暫くは戻らず兄弟や親戚一同集まり重く悲しみに満ちた時間だけが流れていきました。母は父の側にいてあげようと病院に泊り込み兄弟も慌てふためいた様子で県外から戻ってきたりと父の回復だけを祈りました。
 
 
10日間が経過したあと奇跡的に父は意識を取り戻し家族全員で安堵の涙を流し良かったと励ましあいました。ただ一般的な風邪とは異なり脳出血という重い病気であった事や搬送されるまでに少し時間が掛かった事等から後遺症が残る可能性を医師から伝えられていましたのである程度の覚悟は出来ていました。
 
 
また父は目に元々障がいを患っており視聴覚障がい1級の認定を受けあんま、マッサージの仕事をしていました。目に障がいを持ったままのリハビリが予想され後遺症がでなければ良いと思っておりましたが、言語障害、方麻痺、情緒不安定などの後遺症が残ってしまいました。市立病院では暫く経つと一般病棟に戻され一命を取り留めることはできましたが父にとっては辛いリハビリが始まる事になりました。脳出血の経過観察を見守りながら異常な師と言うことで市内の病院に転院することになり本格的なリハビリが開始されました。目標はあくまで自宅療養できるようになるための体力作りで作業療法士の先生に呼ばれ父がリハビリを頑張っている様子を何度も見に出かけました。また洗濯物も山ほど溜まりましたので家族総出で父のお世話をすることになり仕事帰りや休みの日などは交代でお見舞いに行く毎日が続きました。
 
 
そして父が倒れてから10年が経過してようやく退院できることになり家族やケアマネージャー、介護施設職員と話し合いの末近くの特別養護老人ホームに入所する運びとなったのです。要介護認定は一番下の5認定を受け一人では日常生活をこなすこともできなかったのでリハビリ等の訓練を重ねいつかは在宅で療養するというケアプランの元事が進んでいきました。
 
 
特老は自宅から程近い場所にありましたので介護保険を使用して入所しましたが入居費や日用品代等は保険適用外でしたので入所期間が長くなればなるほど出費は大きなものになりました。その後1年近く入所した後要介護認定も5から4、4から3と少しずつ回復しましたのでいざ在宅での療養が開始される事になりました。食事、入浴、排泄などの際には必ず家族の手が必要となり最初のうちは入浴は家族総出で汗だくになって介護するほどの大変さを極めましたが現在は介護認定も2にまで回復し週に3回のデイサービスも利用しながら毎日を楽しんでる父の姿があります。食事の際の嚥下障害、言語障害、左半身の麻痺による震え、直立歩行はできませんがトイレも市の補助と介護保険を利用して改装し手すりも取り付けましたので生活しやすい環境を整える事ができました。移動は両膝を付きながらごそごそと沿う形ですがそれでも退院直後から考えると十分なリハビリの成果であり真っ直ぐ座れなかった事が座れるようになった事もまた然りです。
 
 
現在は当たり前のように住み慣れた我が家で在宅療養をしていますがここに到達するまでの道のりは説明してきましたように様々な事がありほとんどが人生で初めての体験でしたのであっという間に過ぎ去ったという印象が強いです。
 
 
今思い返してみると父が体の異常を訴えたあの日にもっと大きな病院で診察を受けさせ早期に発見できれば良かったと少し後悔の念に駆られる事もありますが、無事に一命を取り留めることが出来ただけでも感謝しないといけません。
 
 
以上、私達家族が経験した事が脳出血という大きな病気に関する出来事が万が一の際に少しでも役に立てればと願っております。
 
 

2016-2-23 脳出血から介護認定をうけ介護施設へ

 

 

 
[交通事故にあって、半身不随に]
 
私は交通事故をきっかけに脳出血を経験しました。
 
この文章は、特殊なソフトウェアを使って書いています。
 
ある日、十字路で右側から思い切り衝突され、乗っていた軽自動車が横転しました。
 
回る車の中で思わず、祖母に教わった念仏を唱えたことを今でも覚えています。
 
ガシャン!と大きな音がして、電柱にぶつかりました。
 
身体は痛かったですが、なんとか意識はありました。
 
よかった、毎日お仏壇にお祈りしていたおかげか、と思いました。
 
すぐに警察と救急車が呼ばれ、私は担架に乗せられて病院へ向かいました。
 
意識がはっきりしていたので、もう大丈夫だと思いました。
 
そこから猛烈な痛みが走りました。
 
言葉に表すことのできない痛みとは、まさにこのような痛みを指すのだと思います。
 
身体中から痛みという痛みがあふれてくるのに、それがどこにもいかず身体に留まり続けているような痛みでした。
 
救急隊員の方によると、痛みのあまり絶叫した後、失禁し、その後治療を受けるまで意識はなくまったく動くこともなかったそうです。
 
意識が戻った後、身体にかなりの違和感がありました。
 
身体の右側が動かないことがすぐにわかりました。
 
かろうじて動く左腕で触れてみても、まったく感覚がありませんでした。
 
ああ、そういうことか。
 
交通事故にあったことはすぐに思い出せたので、自分が半身不随になったことはすぐに理解出来ました。
 
意識が戻ったその日に、相手方が謝罪に来ました。
 
衝突してきたのは、若い学生らしく、学生の両親は悪い人ではなさそうでしたが、あまりお金を持っていなそうだったので、これからが不安になりました。